[1975年4月― ]
静岡県浜名郡舞阪町(現・浜松市)生まれ。先天性ブドウ膜欠損症で、生まれつき左目の視力がなく、右目も見えにくかった。3歳で右目の手術を受け、視力が0.1まで回復。しかし、いつ失明するか分からない状況で、それまでに多くのことを体験させたいと思った両親に連れられ、5歳からスイミングスクールに通い始める。
1988年に舞阪中学校に入学。水泳部に入部し、1日に8000メートル泳ぐという厳しい練習を続けた。中学3年生で右目の視力を完全に失う。それでも水泳をあきらめることはなく、水をかく回数でゴールまでの距離を測り、泳ぎの感覚をつかんでいった。
1991年、舞阪中学校を卒業後、筑波大学附属盲学校高等部に入学。水泳部に入り、顧問の勧めもありパラリンピックをめざす。同年、日本選手権の100メートル自由形と100メートル背泳ぎで優勝。バルセロナ・パラリンピックの代表選考会を兼ねたジャパン・パラリンピックで、100メートル自由形と100メートル背泳ぎを制し、代表入りを決めた。92年のバルセロナ・パラリンピックでは、B1(全盲の部)50メートル自由形、100メートル自由形で銀メダル、100メートル背泳ぎ、200メートル背泳ぎ、200メートル個人メドレーで銅メダルを獲得する活躍を見せた。94年に同校を卒業後、早稲田大学教育学部に入学する。個人で練習を重ね、国際パラリンピック委員会主催の第1回世界選手権では50メートル自由形、100メートル自由形、200メートル個人メドレーの3種目で優勝。95年に水泳部に入部し、ソウルとバルセロナの両オリンピックに出場した藤本隆宏らと練習に励む。ランニングや筋力トレーニングを繰り返して基礎体力を向上させ、96年のアトランタ・パラリンピックでは、50メートル自由形、100メートル自由形で念願の金メダル獲得。
1998年に早稲田大学を卒業後、母校の舞阪中学校に社会科の教員として着任する。その後も水泳を続け、2000年のシドニー・パラリンピックでは、50メートル自由形を当時の大会新記録で制した。04年のアテネ・パラリンピックでも、50メートル自由形で優勝し、3連覇を達成。このほか、銀メダル、銅メダルを2個ずつ獲得した。03年から05年までは休職し、早稲田大学大学院教育学研究科で学校教育を専攻した。
2008年4月からは静岡県総合教育センターに勤務。同年5月には、5大会連続となる北京パラリンピックの代表に内定した。パラリンピックでは、これまで金メダル5個を含む計19個ものメダルを獲得しており、北京大会でも活躍が期待されている。
2000年に教員としての毎日をつづった『夢追いかけて』(ひくまの出版)を出版。03年には監督・花堂純次によって同名で映画化され、本人役で出演した。
関連サイト:
[水林充]
[スポーツ]
[2008年8月31日配信]
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